陸軍中佐上原重雄, Lt.Col. Shigeo Uehara
**** 小さな旅 - 上原重雄中佐の墓地と記念碑を訪ねて ****

(昭和20年2月16日相模湾上空の空戦 ”百機 一機を以て挑戦”)



Link: 昭和19年冬から20年初春にかけての神奈川県中津飛行場における中島4式戦闘機「疾風」のジオラマ
Diorama of 1/48 scale model of Nakajima Ki-84 "Hayate" fighters on the Nakatsu Airfield in 1944 winter to 1945 early spring in English description
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小田原の高名な脳外科医間中信也先生(前の帝京大学市原の脳外科教授)に教えていただいた(神奈川県医師会雑誌への投稿)、小田原市の圏内(国府津二ノ宮広域農道)にある第22戦隊(Ki-84疾風)上原重雄中佐の墓参に平成23年1月22日午前にバーキンで行ってきました。現在ウェブ上で紹介されている、例えば ”上原重雄、陸軍中佐、沼代占有地、 神奈川県小田原市”、に記載されている鉄塔の下にあるかつての墓は既に移動されており、私は丘陵の中を探索して徘徊した後に、移転先を農地の手入れをしていた地元の人に聞きだすまで時間がかかりました(例えば、軽自動車で移動中の多くの地元の人もほとんどその墓のことは知らないようだった)。現在は沼代の王子神社の先の路肩にあります。

[道案内]
アプローチの仕方としては、まず西湘バイパスの国府津ICを下りて、国府津-松田ライン(国道72号)に入り、新幹線のガード、そして厚木小田原道路の高架を越えた直後の田島石橋の十字路を右折して、国府津二ノ宮広域農道に入ります。道なりに走り一番高い地点を越えた後下り坂になりみかん畑を通過していると、左手に褐色の案内板(説明板)があります。この地点の風景はこんな感じです。私は最初右手の鉄塔を目標に山道を登り、記念碑を探したのですが、送電線の鉄塔のふもとには今では何もありませんでした。そこで道路脇に戻り、対面から交差点に向かってくる車を止めて、地元の人に移転先を尋ねたのですが、誰もわかりませんでした。そこで再度山に登り、中腹で農作業をしていた老人に尋ねたところ、「交差点を沼代方向に行き、最初の二股を右折し、しばらく行くと神社があるので、そのすぐ先にある」と教えてくれたのです。まとめるとこの、地図のようになります。上記の案内板 -地図にある公式の説明文(1)- 付近の景色はこのようなものであり、この沼代という方向に入ります。

墓地と記念碑の外観はこのようなものです。わたしはいつもバーキンでツーリングする時には冬はアメリカ海軍航空隊の皮ジャンパーG-1を着ているのですが、今回ばかりは航空自衛隊の紺色のパイロットジャンパーを着用していきました。前もって金曜日の夜小田原駅前のコンビニで購入しておいたワンカップ大関をささやかなお供え物として置いてきました。このように道路に面した場所にあるので、あまり高価なものはお供えとして置いておくのもちょっと不安です。隣接する記念碑にはプロペラをデフォルメした羽の像に碑文が掘ってあります。道路脇に面してこの墓と記念碑はありますが、駐車スペースがあります。

ちなみに飛行第22戦隊というのは、岩橋少佐を中心として中島飛行機の四式戦闘機 (Ki-84) 「疾風」を実戦の場で育てた初の飛行隊として昭和19年から中国に進出し、P-51ムスタングなどと互角以上の戦闘を行い、昭和19年10月のフィリピン決戦(捷一号作戦)においてネグロス島を基地にして奮戦するも物量に凌駕されて消耗、その後内地に戻り、この碑文にあるように神奈川県愛甲町(相模原)などで部隊再建を図っていたようである(愛川町郷土資料館 - 中津陸軍飛行場 -)。その後昭和20年4月の沖縄戦(菊水作戦)までに徐州、朝鮮半島に移動しながら戦闘を続行した、誉高き部隊である。当日のKi-84疾風の塗装はこのような上面暗緑色、下面灰緑色であったと想像される。ちなみに垂直尾翼の戦隊マークは「菊水」を表したものである(この二枚の疾風の画像は http://www2.odn.ne.jp/~cdh88520/pf_type_four.html から借用したものです)。歴戦を物語るように塗装はちょびちょびと剥げて、地肌のジュラルミン地が露出していたことだろう。正確な塗装パターンとシリアル番号などが分かれば1/48のプラモデルをのんびりと仕上げたいものである (外箱: Picture1, Picture2, Disclaimer: 本稿著者と世界的模型メーカーの名前がたまたま同じですが、家系的にもfinantial的にもまったく関係はありません)。上記の説明板の中で一つ納得できないのは「攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の前に」の記述であり、米艦載機の主力はグラマンF6FヘルキャットとチャンスボートF4Uコルセアの戦闘機群とダグラス・ドーントレスやカーチス・ヘルダイバーなどの単エンジンの爆撃機群であったと思われるが、塗装は上面はネイビーブルーで下面はガルグレーであったはずであり、米海軍の塗装に上面暗緑色はない。この部分については訂正した方がよいでしょう。これらの艦載機はB-29の高空からの戦略爆撃とは異なり、低空から地上で動くもののすべて、すなわち蒸気機関車、トラックなどを正確に標的打ちするとともに(”悪さの限りを尽くす”)、航空基地、港はもちろん、駅、操車場、灯台などのインフラを片っ端から機銃掃射して破壊したのである。この任務は欧州の大陸では、とりわけノルマンディー上陸前のフランスではナチスドイツの防衛網の兵站線をズタズタにする目的でP-47サンダーボルト戦闘(爆撃)機、P-38戦闘機、あるいは英国のホーカー・タイフーン戦闘機などが機関車、操車場などを片っ端から破壊したのと同じである。その際にはフランス人の機関士などが多数犠牲(殉職)になったのであるが(映画「大列車作戦」の描写が近い)、戦後そのことについての非難はフランス国内でもさほど起きなかった。それが戦争の実相であり、また歴史とは勝者が強要する"ひとつの物語"にすぎないということになろう("勝てば官軍")。

",,,, The standard of justice depends on the equality of the power to compel and that
in fact the strong do what they have the power to do and the weak accept what they have to accept."
(Thucydides, 402)


国府津に向けて帰り道では先般の行路では後ろ向きになって気づかなかった風景、小田原から箱根、真鶴、更には富士山への眺望が見えてきました。鹿児島県人(享年28歳)である上原中佐の熱誠に応えて、このように懇ろに弔う小田原の人々の真心に対して敬意を表したい気持ちになりました。

文責: 長谷川章雄 (病理専門医、小田原医師会員、小田原市立病院副院長-学術担当-兼病理診断科部長、
ただし本稿はあくまでも独立した一市民として行っている活動であり、所属の掲示はあくまでも参考としての属性の開示にすぎません)


記憶の中の風景 神奈川医師会雑誌 2003/02/11号より著者の許可を得て掲載

「火垂(ほたる)の墓」の想い出  温知会間中病院 間中信也
 

 もっとも古い記憶というのは、何歳まで遡れるものでしょうか。昭和20年8月15日、午前0時から3時の間、小田原市はB29の爆撃により空襲を受けました。太平洋戦争「最後の空襲」です。焼夷弾により当時の高梨町、青物町、宮小路が焼けました。焼失家屋402戸、罹災者1844人、負傷者65人、死者48人を出しました。ポツダム宣言受諾は8月10日、無条件降伏決定は8月14日ですから、小田原空襲はその後に行われたことになります。この最後の空襲のことははっきりと覚えています。夜中にたたき起こされ、ひたすら西へ逃げました。大銀杏のある居神神社の境内に逃げ込んだこと、そこで腹痛を起こしたこと、同日朝、自宅の二階の雨戸がカラカラと開けられたこと、などを思いだします。私は昭和15年12月9日生まれですから、4歳と8ヶ月の記憶です。
 戦争中の記憶といえば、自宅の庭で大人が東の空を指差し、「あ、空中戦だ」と叫んだのを覚えています。空中戦の具体的なイメージは思い起こせません。しかしこの事件はいつまでも心に残っていました。先日、小田原の橘(二宮と小田原の境にある)から曽我山を越えて国府津に抜ける農道をドライブしていたときのことです。その頂上付近に沼代というところがありますが、その道端で「陸軍中佐上原重雄戦死の地」という案内板を見つけました。そこにはつぎのような内容が書いてありました。
 「昭和20年2月16日、相模湾沖の航空母艦から発進したグラマン戦闘機延600機が関東地方を襲った。午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず、小田原市小竹上空で被弾し、炎に包まれ、沼代の丘陵地に墜落し、戦死を遂げた。上原中佐は陸士52期卒業の歴戦のつわものであったが、戦死当時は愛甲郡愛川町にあった第22航空戦隊長の任にあった。この部隊は平壌(ぴょんやん)に移駐が命じられており、敵機への迎撃は禁止されていた。ところが本土が蹂躙されるのを義憤して、自ら単機発進し、戦死を遂げたものである。云々」。道から300メートルほど離れた鉄塔の近くに搭乗機「疾風(はやて)」のプロペラ4枚の中の1枚が記念碑として建てられていました。小雨にけぶる墓前には花が手向けられていました。炎に包まれた飛行機が墜落したところに建てられた墓、つまり「火垂の墓」です。
 わたくしが目撃した空中戦とこの上原中佐の迎撃とが同じものかどうかは定かではありませんが、目撃時の状況から同一のものであったと信じています。とするとこれは4歳4ヶ月の記憶ということになります。4歳といえば、野坂昭如原作の(「火垂(ほたる)の墓」(高畑勲 脚本/監督1988年作品)が思い出されます。4歳の女の子と14歳の兄は神戸の街で戦争に巻き込まれ、生きそして死んでいくという重苦しいアニメです。女優の斉藤由貴さんいわく『二度と見たくない映画、・・・つまらないのではなく・・・全てが心の奥につき刺さってくるので、見ることが辛くなってしまう作品』です。まだ見ていない人は是非見ることを勧めます。ただし一人で見てください。大の大人がアニメ映画で涙を流すのはみっともないですから。
 二宮駅前には「ガラスのうさぎ」の銅像が建っています。手記「ガラスのうさぎ」の著者・高木敏子さんは昭和20年8月5日、二宮駅で艦載機P−51の機銃掃射を受け父を亡くしました。お父さんの亡骸を火葬用の薪と一緒に荷車で当時酒匂にあった小田原の火葬場に運ぶくだりは哀れです。碑文の最後には「ここに平和と友情よ永遠に」と結ばれています。豊かなのに心貧しき現代に伝え残したいメッセージです。

* pdfファイルを間中先生の代理で
ダウンロード可能にしてあります。
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